こども達の世界
子どもたちが遊んでいる姿を見せて頂いていていいなと感じるのは、子どもたちが「遊びこんでいる」姿や表情です。 「遊ぶ」といっても「遊びこめている」姿をいつも感じられている保育もあれば、そうでない保育もあります。ぶらぶらしていたり、もて遊ばれている状況、保育者に遊ばされている状況では遊びこめているとはいえないでしょう。
私は「遊びこむ」「うちこむ」「のめりこむ」といった「〇〇こむ」経験が幼児期の発達にとって、欠かすことのできない意味あるものだと感じています。
先日、ある研究会で「遊ぶと遊びこむという言葉を聞いて、その違いについて私なりに考えたいと思うのだけれど、あなたはどのように考えておられますか」と質問を受けました。
「遊びこんでいる」とは、第一に「没入している」状態、集中している状態であり、第二にその子どもたちならではの発想によって遊びが展開継続している過程にある状態であり、第三に遊びの素材を使いこなし、わが物としていく状況といえるでしょう。そのために一見大人からは無駄にも見える繰り返しの時間やものが必要になるのではないかと思います。
大人の都合で時間・空間を切られた活動の中では、十分に遊びこむことはできませんし、遊びの決まりがたくさん決められていては、独自の発想での遊びは見込めません。いろいろなものや道具も使えるかどうかだけではなく、十二分の量や工夫によって深められる素材の質が保証されなければわが物とはできません。
遊びこめる環境作りには「時間・空間・人間」の三つの「間(ま)」を見直すことが必須です。そして、大人が「邪魔」という「ま」に入らず、また周囲にある邪魔ものを取り除いていく援助をすることも必要でしょう。
遊びこめる子どもが学びこめる子ども、主体的に探究できるカの礎になるのではないでしょうか。
東京大学大学院 教育学研究科教授 秋田 喜代美氏 「遊ぶと遊びこむ」